「どうしても制度」ー民主主義をアップデートするー(後編)
スクールディレクターの蓑手です。
今回は、私が公立小学校時代から実践してきて、HILLOCKでも取り入れようと話している「どうしても制度」の後編です。
例えば、30人のクラスでお楽しみ会をやることになったとします。
お楽しみ会で何をやるかの話し合い。
①ドッジボール・・・29人
②鬼ごっこ・・・・・1人
この時点で、ほとんどのクラスでは「多数決」によりドッジボールをやることになるでしょう。
しかし、この「ドッジボール」に挙げた子たちは、「本当に」「どうしても」ドッジボールがやりたかったのでしょうか。
もしかすると「どっちでもよかった」かもしれません。
もしかすると「友達が挙げていたから挙げた」のかもしれません。
もしかすると「あの子が怖いから挙げるしかなかった」かもしれません。
手を抜いたり、協力しない子が出てきたりして「みんなで決めたでしょ!」なんて言ってしまうこともしばしば…。
く
私は決定する前に、こう尋ねます。
「”どうしても”の人はいませんか?」
人数の多い方で決定するのではなく、一人一人の思いを聴くのです。
ドッジボールに手を挙げた子には、以下のような違いがあるはずです。
①どうしてもドッジボールがやりたい
②できればドッジボールがやりたい
③どっちでもいい
④できれば鬼ごっこはやりたくない
⑤どうしても鬼ごっこはやりたくない
仮にここで、1人の鬼ごっこに手を挙げた子が「どうしても鬼ごっこがやりたい」と言ったとします。
それを受けて、私はこう言います。
「他に、”どうしても”の人いない?」
ここで「どうしてもドッジボールがやりたい」「どうしても鬼ごっこがやりたくない」という子がいなければ、鬼ごっこに決定する。
これが「どうしても制度」です。
もしここで「どうしてもドッジボールがやりたい」という子が表れたとしましょう。
その場合は、なぜ「どうしても」なのかについてみんなで話し合います。
普段からドッジボールをやりたいのに、人が集まらなくてできない、せめてお楽しみ会ぐらいは、という思いが聴けるかも知れません。
また、鬼ごっこは挟み撃ちされたり、鬼になっても足が遅くてつかまえられず、楽しかった思い出がないからという思いも聴けるかもしれません。
そんな声を聴いて、「じゃあ…」と、どうしても鬼ごっこと主張した子が譲ることもあります。
時には「いや、ぼくだってドッジボールは痛いし怖いし、嫌な記憶しかないんだ」という思いが聴けることもあります。
話し合いを通して「じゃあ、内野に入るか選べるようなルールを考えようか」とか、「鬼ごっこしながら、鬼はボールでタッチしてもいいルールにしようぜ」なんて第3案に発展することもよくあります。
これが民主主義ですよね。
自分の要望を、数を集めることで押し通すことではなく、全員が楽しく参加するにはどうすればよいかを考えること。
思いを聴いて、ルールやシステム自体を再構築して合意形成すること。
その中に、多くの学びがつまっているのです。
この制度の話をすると、こんな意見が寄せられます。
「わがままな子の主張ばかり通っちゃうんじゃない?」
私はごく一般的な小学校の、それこそ学級崩壊を経験したような子たちのクラスで3年間実践してきましたが、結果から言うとそんな子は一人もいませんでした。
最初のうちは、「どうしても」を乱発する子もいます。
でも、2,3度その子の「どうしても」をみんなで実現すると、こんなことを言い始めるのです。
「みんなはいつも、俺の”どうしても”を叶えてくれてる。だから今度は、みんなの”どうしても”を俺は叶えたい。」
素敵ですよね。きっと今まで「わがままだ」とか「勝手だ」と言われて、自分の要求が通って来なかったのかもしれません。
自分のコップが満たされると、誰かのコップを満たしたくなる。
それが人間のもつ、素敵なところだよなぁといつも感じます。
また、こんな意見もあります。
「子どものことばかり聞いていては、教育としてどうなのか」
ここで誤解して欲しくないのは、「どうしても」の権利をもっているのは子どもだけではないということです。
先生も、同じく「どうしても」の権利を発動できるのです。
子どもたちの決定があまりにも危険だったり、予算的に難しかったり、誰かを傷つける可能性があれば、そこは教師が「どうしても」を発動すべきでしょう。
理由を伝えて、それでもぶつかるようなら納得できる形まで話し合いたいものですよね。
そう考えると、実は教師は日常的に「どうしても」を乱発していることに気付きます。
朝学校に来たらこれをやってね。
授業の時はこういう風に学習を進めてね。
休み時間は外に出てね。
帰ったらこの宿題をやってね。
これってどれも、大人にとっての「どうしても」だし、子どもには反対表明も理由を教えてもらう権利もないんですよね。
だから私は、あえて「今日は始業式だから〇時に体育館に並んで行ってね。これ、先生からの”どうしても”だから」と言います。
子どもたちは笑いながら「いいよー」と言ってくれます。
今の校則の問題も「ルールだから守らなきゃダメ!」なんてつれないこと言わず、どうしても制度で話し合えればいいのになぁと思っています。
「どっちでもいい」がいなければ、同じように「できれば」を聞きます。
その上で、多数決にしていいかを確認してから多数決にします。
譲ってくれたり、どっちでもいいと言ってくれたりする子には「みんなのためにありがとね!」と声をかけます。
本当にみんなのためを思ってなのか、なんて邪推は必要ありませんw
もう一点大切なのは、「どっちでもいい」が「どうでもいい」や「どっちも嫌」ではないということ。
どっちでもいいと言っておきながら、批判的な言動をしたり裏でグチグチ言うのはおかしいよね、と話します。
どっちでも、全力で貢献する。
そういう意味で、「どっちでもいい」と言えるのはとても難しいものだし、ある意味ムテキだよねと価値づけています。
この制度はまだまだ検証段階です。
しかし、手応えは感じています。
人はみんな違う。熱量を持って主張すれば、聞いてもらえる。
協力してくれる仲間がいる。誰かの願いを叶えることは気持ちいい。
話し合うことで、新たなアイデアが生まれる。
正直に反対意見を口に出すことは、より集団のためになる。
そんな感覚を身に付けてくれたらいいなと、いつも考えています。