【HILLOCKのヴィジョン④】ありのままの違い=美
前回に続き、HILLOCKにおけるスクール憲法「ヒロック宣言」の第2条解説です。
これまでの記事はこちら。
1.(個の定義)シェルパ、コゥ・ラーナーはそれぞれかけがえのない個人として対等であり、公正に扱われる。
かけがえのない個人として対等
公正に扱われる
2.(個の定義)シェルパ、コゥ・ラーナーはそれぞれかけがえのない個人として対等であり、公正に扱われる。
第2条は個の定義。
第1条で場を定め、第2条で個を定めるという順序になってます。
シェルパというのはHILLOCKでいう教員的立場の大人、コゥ・ラーナーとは児童的立場の子どもを指します。
それぞれの人にとって、HILLOCKがどう在れる場なのか。
それをこの条文に込めました。
かけがえのない個人として対等
当たり前のことですが、周りの環境でできているかと問われると疑問ですね。
「大人が上位で子どもが下位。」
「大人の方が判断力に優れているから、子どもはそれに従うべき。」
そんな考えが学校や家庭など、至るところで見られるような気がします。
子どもは大人の従属者・隷属者ではないですよね。
少なくともHILLOCKでは、上から目線で押さえつけるのではなく、対話をしていこうと掲げた条文です。
年齢や経験、能力に関わらず、すべての人には唯一無二の価値がある。
そこに対話の価値や学び、創造が生まれてくると信じています。
公正に扱われる
「公正」という概念も、少し難しいですね。
「平等」と混同されがちな概念ですが、
・平等…すべての人に一律均等に配分されるもの。
・公正…その人の能力や待遇に応じて適正に配分されるもの。
という違いがあります。
言い換えると、平等は支援の公平、公正は機会や結果の公平と言えるかも知れません。
人はそれぞれ違います。
それぞれの良さを引き立たせ合いながら、足りないところは手を差し伸べ合っていく。
仕組みの中で平等性ばかりに目を向けるのではなく、格差が生まれる仕組み自体を作り替えていく。
そんなダイナミズムの中で、公正について考えていければと思っています。
「色々な人がいていい」から「色々な人がいるからいい」へ。
「違ってもいい」から「違うからいい」へ。
ありのままの違いを、美として受け入れられると素敵ですよね。